絶対値は変わらない

「……何か用?」
 任務の帰り道だからと、少し迂回してガンダルヴァー村を訪ねればティナリは書き仕事をしていた。邪魔しては悪いかとセノはツリーハウスの入り口前で立って待っていると、その気配を察したのか、ティナリは入り口まで出てきてセノに声をかけてきた。心なしかその声には張りがない。
「気付いていたのか」
「当たり前だろ。そんなぺたぺた足音させて。そんな音で歩く人、君以外にいないよ」
 入りなよ、と短く続けたティナリは机に戻っていく。忙しいらしい。
「いや、特に用はない。ただ任務帰りに立ち寄っただけだ。お前は忙しそうだし、もう戻るよ」
「あー、ちょっと待って待って」
 さっさとセノが立ち去ろうと身を翻すと、今度はティナリがセノを引き止めるべく振り返る。
「忙しいんだろう?」
「ちが……わないけど、でもそろそろ休憩しないとと思ってたし。君が急がないのなら少し付き合ってよ」
 身に纏っていたローブをぎゅっと掴まれて振り返る。正面から見たティナリの顔には薄らと隈が浮かんでいる。耳や髪、尻尾の毛にも艶がない。
「……何日目だ?」
 主語もないのに、ティナリはその質問の意味を理解したらしい。はは、と苦笑して白状する。
「君に誤魔化しはきかないよね……今日で三日目」
「それなら俺がいる間は寝ればいい。どのくらいで起こせばいい?」
「じゃあ、お願いしようかな。時間は、そうだな……もう少ししたらパトロールに出ているレンジャー隊が戻るから、彼らが戻ってきたら起こしてくれる? 報告も聞かないといけないし」
 言いながらベッドにふらふらと歩いていく。その足取りは危うく、いつもぴっと背筋を伸ばして立っているティナリと比べると、まったくの別人みたいだ。
「分かった。ゆっくり眠れるといいな」
 ティナリはおやすみ、と弱々しく告げると、数秒も経たないうちにすぅ、と寝息を立てて眠り始めた。

***

「急だね。どうかした?」
 ツリーハウスで机に向かっているティナリに声を掛けようとして、掛ける前にこちらを振り返りもしていないティナリの声が飛んできた。思わずぴくりと足を止める。
「いや、用があって来たわけじゃない。ただ少し立ち寄っただけだ」
 璃月との国境近くで簡単な任務を終え、シティへ戻る前にガンダルヴァー村に立ち寄った。ティナリとコレイの顔を見るほかに、セノに主だった目的はない。
「そっか……来てくれたところ悪いけれど、今日はおもてなしできそうにないんだ」
 ごめん、と振り返ったティナリの切り揃えられた髪からは艶が消え、耳や尻尾の毛もぼさぼさ。疲れ切った顔をしている。
 思わずその頬に、手を伸ばす。
「セノ?」
「……っ、いや。……その様子だと三日目といったところか?」
 隈ができてる、とその頬にさらりと指を滑らせて落とす。ティナリはふは、と笑った。
「正解。よく分かったね」
「何年か前にもこういうことがあったからな」
「そういえばあったね、そんなことも」
 ティナリは立ち上がるとベッドに向かった。
「今日もそろそろ休もうかな。せっかくセノが来てくれたところ悪いけど」
「ああ、眠るといい。今日はいつ起こせばいい?」
 だがその答えは返ってこず、代わりにティナリはセノを手招きする。呼ばれた通りに近づき、
「なん――」
 どこから出ているんだと思うような強い力でぐいっと引っ張られ、思わずバランスを崩す。
「こうしててくれたらいいよ……」
 くぁ、とあくびを漏らしたティナリは、おやすみを言ってセノを抱き枕にしたまま、瞼を下ろしてしまう。
「っおい、ティナリ……!」
 抗議の声をあげようとするも、すやすやとあどけない寝顔を見せつけられてしまっては無理に起こすようなこともできずセノは押し黙ってしまう。

 目が覚め、意識のはっきりしたティナリが顔を赤くするまで、あと――

絶対値が近付くまで