休日

 まだティナリが教令院の学生だった頃の話だ。
 今よりずっと狭い世界で生きていた。教令院の権力争いにも世界の神秘にも無関係で、ただ自分の興味のあることにすべてを注いで取り組めていた頃。それでも周囲はティナリを放っておかなかった。一般的に教令院に入る年齢よりもずっと歳若いティナリは、それだけで周囲の目を引いた。遠くからでもよく目立つ耳に尻尾。おかげで声をかけられやすく、そしてそれを無視できない性格のせいでいろんな誘いがあった。食事、記念撮影、サークル……実験や論文の相談をされることも少なくなかった。それはそれで自分の学びにも繋がったが、できれば少し静かにしてもらえると助かるな、とは思っていた。
 ティナリは決して人嫌いなわけではない。ただ少し、人よりも騒がしいのが苦手なだけだ。
 その日、ティナリは数週間に渡る研究観察を終えたばかりで、久しぶりの休日をどう過ごそうかと考えていた。昨日までの観察で得たデータをできるだけまとめておきたいし、先行論文も改めて読み返しておきたい。関連書籍を読むのも新しい発見が見つかるかもしれないし、そうするとやはり今日は知恵の殿堂に向かうのが得策だろうか。
 そこまで考えて、そもそもこの数週間、碌に買い出しにも行っていないことを思い出した。寮の自室には食材は残っていない。ここ数日はもう簡素な携帯食でやり過ごしていた。
 教令院の方へ向かっていた足を止め、引き返そうとしたその時。
「あっ、ティナリ! ちょうど君を探していたところなんだ!」
 後ろから目ざとくティナリを見つけた学生の声が飛んできた。
「この間相談した論文のことなんだけれど、新しく資料が見つかって、書き直してみたんだ」
 彼の声には聞き覚えがある。二週間前に素論派の授業で、偶然前後に座った縁で論文のことを相談された。彼の論文はちょうどその授業で取り扱っていた地脈エネルギーの循環についてのもので、ティナリにも一応その内容についての見解を持つことができた。だがあくまでティナリは生論派の学生だ。素論派の論文にこれ以上口を出すなんて遠慮したいところだった。
 何より今日は休日で、少なくともティナリはティナリのために今日という日を使いたい。
 くるり。振り返って声の出どころを探すと、件の学生は親しげに手を振った。が、ティナリはその彼に向かい、大きな身振りで両手を合わせて頭を下げた。
「ごめん! 相談には今度乗るから、今日はこれで!」
 それだけ言って、ティナリは駆け出した。え、ちょっと! と引き止める彼の声も構わず、螺旋状の坂道を下っていく。
 人通りの少なくない道をティナリは走る。だんだんそれが楽しくなって、軽くひょいと柵を飛び越えたその先。
「わっ――ど、どいて!」
「は?」
 人影が見えて咄嗟に声をかけたが、相手が振り返った時にはもう遅く。どしん! という衝撃が……あれ? 襲ってこない?
「……何をしてるんだお前?」
 またも聞き覚えのある声が、普段より幾分呆れたようにティナリに問いかけてくる。
「セノ!」
 柵から飛び出して相手を突き飛ばすどころかむしろ受け止められた。そんな芸当ができる者はこのスメールシティの中でも限られているだろうが、その中でもとびきり信頼できる、ティナリの友人がそこにいた。
「ごめん、ちょっと浮かれちゃって。怪我してない?」
「俺は平気だが……お前でも浮かれることがあるんだな」
「うぅ……本当にごめん。それから、受け止めてくれてありがとう」
 意外そうな感想に、ティナリは余計に居た堪れなくなって地面に降ろされながら謝る。
「急いでるのか?」
「うーん、たぶん大丈夫、かな。ところでセノは今日は仕事?」
 後ろを振り返り、かの学生が追いかけてきていないことを確認すると共に、いいことを思いついたとセノに今日の予定を尋ねる。
「いや、休みだが……」
「急ぎの用事は?」
「特にないな。おいティナリ、なん――」
「じゃあ僕に付き合ってよ」
 セノの言葉を遮って言うや否や、ティナリは大マハマトラを務める友人の手を掴んで再び駆け出した。
 セノの隣は静かだ。それは彼が口数が多いわけではなく、声は穏やかであることに加えて、あらゆる学者学生、あるいはエルマイト旅団から恐れられる立場にある者だからだ。セノの周りにいるのはマハマトラの仲間か賢者、そうでなければ罪人くらいだろう。ティナリはそのいずれにも当てはまらないが、最近セノの隣によく立っている。セノといると、皆ティナリたちを遠巻きに見ていて、あまり人から話しかけられない。今回はそれを利用させてもらった。
「お前……」
「あはは、ごめん。でもこの方が都合がよくて」
 とりあえず入ったプスパカフェで向かい合い、注文した飲み物を待つ間にティナリは事情を説明した。
「でも、もちろんそれだけじゃない。それだけじゃないどころか、僕はセノと一緒にいるのが好きなんだよ」
 セノの隣は静かだ。それは彼といることで遠巻きにされたり、彼が物静かだから。
 ティナリは騒がしいのが得意ではない。
 でも、それだけがティナリがセノと一緒にいる理由じゃない。
「え……」
 面食らったようなセノが珍しくて、頬杖をついたティナリは口角を上げた。せっかくの機会だ。この際思っていることを言ってやろう。
「だって、居心地がいいからね」
 セノとの間に落ちる静寂は、他の人との間に落ちる沈黙とは違う。ただその静けさに身を委ねて、微睡むように漂っていられる。
 頼んだ二人分のコーヒーが運ばれてくる。ここのコーヒーはティナリもお気に入りだ。
「君との会話は、変なジョーク以外は楽しいし、お互い黙っていたってそれがむしろ心地いい。そんな相手に僕は生まれて初めて出会ったし、見つけてしまったら一緒にいたいって思うのが普通じゃない?」
「……ジョークは、だめなのか」
「そこなの? まあ、そうだね。面白くない」
 的外れな反応に思わず笑ってしまう。だがこの返答は大事だ。真面目に答えてやらないと。でなければ今後にも響いてくるに違いない。
「とにかく。僕が言いたいのは、こんなふうに休みの日を一緒に過ごすならセノがいいなってことだよ」
 だから、君がよければ今日一日、僕に付き合ってくれない?
 改めて手を差し出す。この手を前に、セノはどう答えるだろうか。
 ぱちくり、と。しっかり三秒、まばたきを繰り返して、そしてセノは笑った。いつもの分かりづらい笑みではなく、分かりやすくまなじりを下げて、笑い声を漏らして。
「ふっ……分かった。俺もティナリと過ごす時間は好きだよ。今日はお前に付き合おう」
 小麦色の手が重なった。
「オーケー。じゃあとりあえず、ここでお昼でも食べて行こう」
 ティナリはメニューを手に取った。ここを出たら次はどこへ行こう。グランドバザールでもいいし、トレジャーストリートでもいいかもしれない。セノは何か必要なものはあるだろうか。
 二人の休日は始まったばかりだ。食事をしながら、ゆっくり相談しよう。

■□■

 やっぱり、「好き」という言葉を使ったのは少々意地が悪かっただろうか。ティナリは今も時々思い返す。
「ティナリ」
 静かな声に呼ばれて振り返ると、そこには約束していたセノがいた。
「待たせたか?」
「ううん。それに待つのには慣れてる。学者の辛抱強さを舐めないでよ」
 首を振って、いたずらっぽく笑ったティナリはセノに駆け寄った。静かな彼の隣を歩く。
 さあ、今日はどこへ行こうか。