ひたひた、と。大抵の人間からはしない足音を大きな耳が拾い、ぴこりと揺れる。近付いてくるそれが何なのかティナリは知っている。と同時に、もうそんな時間かと驚く。論文を書いていると時間はあっという間に過ぎていく。
「ティナリ」
柔らかな声に呼びかけられる頃には、机の上に広げていた資料と原稿用紙はすっかり片付けられ、来客を迎える準備が整う。振り返るとそこには想像通り、黒いローブを着た友人が立っていた。被っていたフードをぱさりと脱ぎ、白銀の長い髪が現れる。
「いらっしゃい、セノ」
降り注ぐ祝福
今日は朝からティナリの周りは騒がしかった。まるで教令院時代に、いろんな学生からの誘いや相談が絶えなかった頃みたいだ。
「ティナリレンジャー長、お誕生日おめでとうございます!」
村のレンジャーたちから祝福の言葉をもらってようやく、ティナリは自分の誕生日であることを思い出した。ああそっか、なんて声を思わず漏らして皆に笑われてしまう。
十二月二十九日。それがティナリが生まれた日。
コレイも恥ずかしそうに、コレアンバーと名付けた人形のマスコットを差し出して「いつもありがとうございます、師匠。お誕生日おめでとう!」と祝ってくれた。愛弟子からのお祝いとプレゼントはティナリを笑顔にするには十分すぎるものだった。
両親からも贈り物と手紙が届いた。欲しかった学術書を送ってくるのは学生の頃から変わらない。もう欲しい本くらい自分で買える歳なのに、彼らはティナリをそんな形で甘やかす。お礼の手紙を書かなくちゃ、と心に留めた。
いつもより賑やかな朝を過ごして、いつも通りの職務をこなす。とはいえ今日のティナリの仕事は午前中に森のパトロールと報告書の作成、午後はコレイの授業という簡単なものだけだった。夕方にはセノが来ると以前から約束していたこともあり、コレイの授業が終わった後は両親へと、そういえばと思い出した旅人への手紙を書いてから、すぐに切り上げられる論文用の作業をして過ごしていた。時たまコレイが復習の質問にやって来て、いくつか問題を解いて帰っていく、というのを二、三回ほど繰り返しただろうか。魔鱗病は完全に消滅、死域ももうほとんど消えて、近頃は穏やかな生活が続いていた。コレイも、レンジャーの仕事に勉強に、毎日楽しそうにしている。むしろ元気すぎるほどで、傷を作って帰ってこないかが心配なくらいだ。
最後にコレイがティナリの家を出て一刻ほど。ティナリが論文に集中していた頃に、セノはやってきた、というわけだ。
「そうか。論文の邪魔をしてしまったか?」
と、コーヒーを淹れながら今日のあらましを話したティナリの背中に、セノは問いかけた。
「大丈夫。かなり進んだし、元々いつでも切り上げられるような作業をしていただけだから。今日届いた本……机に置いてあるものだけど、欲しかった情報がそれに載っていてさ。最近取れたデータとも合致して、いい感じなんだよね」
この調子ならあと数日のうちにでも完成させられるかもしれない、と付け加える。
「そうか」
短い相槌だったが、セノの声はわずかな微笑みをたたえていた。
「最近コレイはどうだ?」
毎日楽しそうに過ごすコレイの姿を思い浮かべて、ティナリの顔も自然と綻ぶ。
「変わりない、元気だよ。あと、背も少し伸びたね。勉強もレンジャーの仕事も、できることが以前より増えて生き生きしてる。そういえば今日、朝からくれたコレアンバー人形の小さなマスコット、いつの間にあんなの用意したんだろう」
ほらそこに、と机の上の緑と黒の色をした猫のような耳を持つ小さな人形を指す。マスコットを覗き込んだセノは、それを見て小さく感嘆の声を上げた。
「あの子は器用だな」
その感想にはティナリも同意だった。
「そうだね。以前は魔鱗病の影響もあったし、彼女自身がいろんなものに触れたり触れられることに怯えていたからむしろ不器用な印象が強かったけれど、コレイは元来器用だ」
裁縫も料理もコレイは得意だ。はじめの頃こそ裁縫をすれば針で指を刺し、料理をすれば調味料の加減を間違えたり、食材を切るのも一苦労だった。どちらもかなり時間を費やしていたけれど、それも今では器用にこなしている。努力家で根気強いという長所は関係しているだろうが、手先の器用さも彼女が生まれ持った才能だとティナリは思う。
ふと、ティナリはセノに尋ねなければならないことを思い出す。
「そうそう、さっきも言ったけど、旅人に手紙を出したからたぶん彼らも来ると思うんだよね。せっかくだし、コレイも呼んでみんなで夕食にしようと思うんだけど、いい?」
そのことをわざわざセノに伺いを立てたのは二人の関係故だ。今の二人を表す言葉は友人、だけではない。皆を呼べばその分二人きりの時間は減る。だが、返ってきたのはきょとんとした顔で、おまけに首を僅かに傾げている。
「? 俺は構わないが」
なぜわざわざそんなことを聞く、と言いたげな表情だ。
「……」
こう言っては何だが、セノは欲というものがあまりない。加えて、どういうわけかこういったことに関してはやたらと鈍い。ティナリがなぜそんなことを聞いてくるのか分かっているのかも怪しいどころか、恐らく、いやほぼ確実に分かっていない。そのことにやや不満を抱きつつも、それすら愛おしいと感じてしまうのだからセノという男は厄介だ。
「……分かった。夜は、どうするの? 泊まっていく?」
そこまで言葉にすればさすがのセノも気がつくだろうと、カップを差し出しながら彼の顔をちらりと盗み見る。
「そう、だな……」
だがどうやら今度は勘違いしたのか、セノは視線を彷徨わせる。確かに、今の言い方はティナリにも問題があったかもしれない。彼の褐色の肌の上では少し分かりづらいが、その頬は常より赤く染まっていて……僅かに小さくなった声で、しかしセノは肯定した。
勘違いは、それはそれで面白いから夜までそのままでもいいかもしれない。ティナリはセノと二人で過ごせるならそれでいいのだが、その先――セノが想像したことを現実にするかは、その時に決めよう。
茶請けにと彼が以前来た時に置いて行ったナツメヤシキャンディを油紙で個別に包装したものを入れたキャンディポットを出してやれば、セノはそちらへ手を伸ばした。おおよそ、気を紛らわせたいのだろう。泣く子も黙る大マハマトラが、こんなに分かりやすく動揺し、あまつさえそれを紛らわせるためにキャンディを頬張っているだなんて、彼に捕らえられてきた者たちは聞いても信じないだろう。
「……ところで、今日の主役はお前なのにお前が夕飯を用意するのか?」
気を取り直したらしいセノの質問に、今度はティナリが首を傾げる番だった。
「そうだけど……他に誰がいるっていうの? まさか君がするとでも?」
たとえ自分が主役だと言われても、客人を炊事場に立たせて自分は寛いでいる、なんてわけにもいかない。ティナリは当然自分がもてなすつもりでいたが、それではセノも不服らしい。
「いや、分かった。それならいい案がある」
そう告げて、ティナリは一度座ったばかりの席を立った。コレイの復習もそろそろ終わっているはずだ。
◇◇◇
「これ美味いぞー! 誰が作ったんだ⁉︎ こっちのピタはコレイだよな! おまえら、旅人ほどじゃないけど、なかなかの料理の腕だぞ!」
予想通り、というより、ティナリが夕食に招待した旅人とパイモンはちょうど食卓に料理が揃った頃にやって来た。
ティナリの案は、セノとコレイと共に三人で夕食の準備をするというものだった。セノと並んで料理するというのはコレイにはまだ少しハードルが高いかと思い間にティナリが入ったが、いつもの華麗な手捌きと違い、危うくナイフで指を怪我するところだった。それでもなんとか料理を終えた頃には、コレイの表情も少し柔らかくほぐれていた。
前菜には雨林サラダと山盛りキノコを。みんなが少しずつつまめるようにといつもより小さめに作られたピタ。ミントビーンスープは人数分の皿に掬い、シャワルマサンドはキノコを包んだ特別レシピ。四角錐に固められたタフチーンとビリヤニはそれぞれ大皿に盛られた。ティナリの味覚に合わせて作られる料理は他の者からすると薄味で物足りないから、スパイスソースを作って添えることも忘れない。
「ティナリ、お招きありがとう。それと誕生日おめでとう! これ、プレゼント。パイモンと一緒に考えたんだよ」
凄まじい勢いで料理を平らげていくパイモンをよそに、旅人は綺麗なリボンのかけられた包みを差し出した。結構な大きさだ。
「ありがとう!」
受け取ると同時にふわりと鼻を撫ぜた香りに、その中身を想像して尻尾が揺れる。その横で、パイモンが口の周りにソースとごはん粒をたくさんつけてそういえばと尋ねてきた。
「コレイとセノはもうプレゼントは渡したのか?」
「あ、あたしは朝に」
コレイが答えると、一同はお前はどうなんだとセノに視線を向けた。セノは動じることなく、それらを受け止めて口を開く。
「食事の席で出すようなものじゃないから後で渡すよ」
へぇ、と納得がいくような、そうでないような曖昧な反応をみんながとる。
「開けてもいい?」
その空気を上書きするように、ティナリは旅人とパイモンの方を向いて聞いた。セノのプレゼントに関しては楽しみにしていよう。
「もちろん!」
二人は揃って笑顔を返してくれた。
ガサゴソと音を立てて、少し皿を退けたテーブルの上で包装紙を広げる。中から現れたのは大きな箱だった。
「お前ら、どうせ持ってきてないんだろ?」
パイモンの得意げな声を耳で拾いながら箱を開けるとそこにはホールケーキが鎮座していた。
「わぁ!」
取り出したそれを見て、コレイが声を上げる。色とりどりの果物がいっぱいに並べられ、薄いゼリーで飾られたフルーツタルトだ。照明を受けてキラキラと輝いており、プレートには丁寧に「誕生日おめでとうティナリ」と書かれている。知らない匂いが混じっていないから、恐らく二人の手作りだろう。
「ケーキか。景気がいいな」
「ちょっと黙ろうかセノ」
突然ジョーク、もとい寒いギャグを言い出したセノを遮る。おとなしくしていてほしい。む、と何か言いたげな表情でティナリを見てきたが、そんな顔をしても無駄だ。実は、と旅人が切り出してくれてティナリは内心ほっとする。
「セノが持ってきてるんじゃないかって心配もあったんだけど、あの様子なら心配なさそうだね」
旅人のその言葉に、セノはコホンと咳払いをした。どうやら図星だったらしい。
「旅人、パイモン、本当にありがとう! あとでみんなで食べよう」
「それで、親愛なる友人殿は食事の席で出せないような何をくれるのかな?」
旅人たちとコレイがそれぞれの家――旅人とパイモンは洞天に戻るらしい――に戻って、空間にティナリとセノの二人だけになってしばらくして。ハーブティーの入ったカップを手渡し、セノの隣に腰を下ろしながらティナリは尋ねる。
「……」
他人行儀な言い様が気に入らないのか、セノはじとりとした視線で言い返す。
「揶揄うな」
「揶揄う? まさか」
肩をすくめてティナリはけらけらと笑う。
「僕は君からどんなプレゼントをもらえるのか、楽しみにしているだけだよ」
それとも、と唇をセノの耳に寄せる。
「友人では不満? 恋人って言ってほしかった?」
「っ……」
囁くと目に見えてセノは肩を跳ねさせた。その反応にティナリは満足し、身を離す。
「なんてね」
先程までの熱の籠った雰囲気はどこへやら。ティナリはいつもの爽やかな笑顔に戻ってカップに口を付けた。普段より浮き足立っている、そんな自覚はあった。だからティナリは自制心のあるうちに引き返そうとした。ハーブティーを選んだのも、無意識のうちに自分を落ち着かせたいと思っていたのかもしれない。
「……ごめん、僕もちょっと浮かれてるみたいだ。これ以上は意地悪しないよ。それより早――」
「ティナリ」
早くプレゼントが見たいな、という言葉はセノの口へ吸い込まれて消えた。
「揶揄うのも大概にしてくれ。お前の誕生日だというのに……欲しくなる」
長い口付けの後のセノの懇願は、ティナリを困らせた。
そんなつもり、なかったのに。
せっかく自分はそこで立ち止まったのに。
「君ってさ、ほんと素直だよね」
そんなことを言われて手を出さないほど、ティナリは臆病者じゃない。
「大丈夫だよ、セノ」
その顎を掬い上げ、今度はティナリから口付ける。
「僕も君が欲しい」
セノに欲がないと言ったのも、今日は二人一緒に過ごせるだけでいいだなんて思いも、全部撤回だ。
◇◇◇
「ねえセノ」
灯りを消してベッドの中で、セノを抱きしめながら名を呼ぶ。温かい。真夜中ということもあり、彼を呼ぶ声は自然と囁くように小さくなる。
「ん?」
「今日、わざわざ僕に会うためにずっと前から休みを取ってくれてたんだろ? ありがとう」
大マハマトラは暇じゃない。ただでさえ今は学生たちが卒業のための論文を提出する時期で、マハマトラはその精査に多忙を極めているはずだ。その頂点に立つセノは言わずもがな。にも関わらず、わざわざ今日この日にティナリに会うためにセノは半日休みを取った。ティナリは自分の誕生日を忘れていたから、そのことに気が付いたのは今日になってからだったけれど。
「それは……俺がしたかっただけだよ。むしろ一日休めなくて悪かった」
そんなこと、謝る必要なんてないのに。
「だったら、尚更ありがとう。今日君に会えて嬉しかったよ」
微睡みながら、セノの柔らかな髪に指を差し込む。
「セノ」
「どうした?」
「好きだよ」
ちょうどつむじのあたりにキスを落とす。いつも険しい仏頂面で歩いている大マハマトラの頭頂部にこんなことができる人間、テイワット中を探してもティナリ以外にいないだろう。
「っ……」
分かりやすくセノが息を詰めた。彼がこんな反応をするのもティナリの前くらいのものだ。照れている。かわいい。愛おしさが込み上げる。
おずおずと、セノがティナリの背に手を回してきた。
「俺もティナリが好きだよ」
はっきりとした口調でそれを伝えられて、ふふと柔らかな笑みが溢れる。その言葉は何よりのプレゼントだ。
「ティナリ」
「ん……なに?」
鼻がくっつきそうなほどの距離で。眠りに落ちる瞬間に。大好きなひだまりみたいな声で祝福の言葉が降り注いだ。
「誕生日おめでとう」
それ以来、とあるレンジャー長から大マハマトラに宛てられた手紙は、海老茶色のインクで綴られたという。